第7章 武家社会の成長
①室町幕府の成立
鎌倉幕府の滅亡
- 後嵯峨院の死後(1. 後深草)上皇の系統と(2. 亀山)天皇の系統が対立
- 後深草=(3. 長講堂)領を相続し、(4. 持明院のち北朝)統の祖
- 父後嵯峨院の決定に不満で(5. 幕府への働きかけを強める)
- 亀山=(6. 八条院)領を相続し、(7. 大覚寺のち南朝)統の祖
- 自律的に皇位継承者を決定できず幕府の関与により(両統が交代で皇位につく8. 両統迭立)が実施される
- ↓
- 1318 大覚寺統の(9. 後醍醐)天皇が即位、(10. 天皇親政)を行い、幕府の干渉に反発
- *当時鎌倉幕府は執権(11. 北条高時)のもとで内管領(12. 長崎高資)が賄賂政治を行い、(13. 得宗専制政治)への不満が有力御家人内においても高まる
- 1324 後醍醐天皇の1度目の討幕計画が失敗=(14. 正中の変)
- →側近の日野資朝が佐渡へ配流される
- 1331 後醍醐天皇の2度目の討幕計画である(15. 元弘の変)が失敗し、幕府により持明院統の(16. 光厳天皇)が即位、後醍醐天皇は(17. 隠岐)へ配流される
- ↓
- 後醍醐天皇の皇子(18. 護良親王)や(19. 楠木正成)らが反幕府勢力を結集し、後醍醐天皇は隠岐から脱出し有力御家人の(20. 足利高氏)が離反し六波羅探題を攻略、鎌倉では(21. 新田義貞)が北条高時らを滅ぼし、鎌倉幕府は滅亡(1333)
建武の新政
- 後醍醐天皇は公家中心の復古主義的な新政治=(22. 建武の新政)を開始
- :光厳天皇を廃し大内裏造営や銅銭・紙幣の発行を計画
- (23. 延喜・天暦の治)を理想化し、後漢光武帝の年号(建武)を採用
- 全ての土地所有権を天皇が出す(24. 綸旨)によって決定する方針を打ち出す
- 《中央組織》
- (25. 記録所):重要政務、天皇側近が就任
- (26. 恩賞方):恩賞事務
- (27. 雑訴決断所):所領関係の裁判
- (28. 武者所):警備、新田義貞が就任
- 《地方組織》
- (29. 鎌倉将軍府):尊氏の弟である(30. 足利直義)らが派遣される
- 陸奥将軍府 *関東の実体は旧幕府
- 各国に(31. 国司と守護)を併置する
- 公武合体の政治は当初から混乱、武士にとって不変の法とされたものが適用されないなど、武士の不満が高まる(庶民も重税に不満)
- 1334(32. 建武元)「33. 二条河原落書」に風刺・批判される
- 1335 鎌倉で北条高時の子である時行が反乱を起こす=(34. 中先代の乱)
- →鎮圧のために関東へ向かった(35. 足利尊氏)が建武の新政へ反旗を翻す
南北朝の動乱
- 1336 尊氏が楠木正成を破り入京、持明院統の(36. 光明天皇)を擁立し院政を復活させる=(37. 北朝)
- 尊氏、京都に幕府を開く上での施政方針である(38. 建武式目)を発表
- :1338(39. 征夷大将軍)に就任、弟の直義と政務を分担
- 一方、後醍醐天皇は奈良吉野山中で政治を行う(=南朝)
- (40. 北畠親房)が中心となり九州など各地に南朝の拠点が築かれる
- 以後(41. 1392)に再統一されるまで南北朝の動乱が長期にわたり続く
- 《動乱長期化の背景》
- ①幕府の内部分裂
- 1350(観応元)~52二頭政治が破綻
- (42. 旧勢力が支持する直義派)と尊氏の執事(43. 高師直)に代表される(44. 新興勢力が支持する尊氏派)が軍事衝突(=45. 観応の擾乱)
- ②武士社会の変質
- 分割相続から(46. 単独相続)への移行により(47. 惣領制)が解体
- 一族内部で分裂が発生、一方が北朝につけばもう一方は南朝方へ
- 混乱が収束するまで長期の時間を要する
- *動乱期には(48. 血縁的)結合は意味を失い、武士は生き残りをかけて(49. 地縁的)結合を重視するように→(強い力を持つリーダーが多くの部下を集めて地域で有力者に成長)
守護大名と国人一揆
- 幕府は地方武士を動員するため、各国で武士を束ねる(50. 守護)の権力を強大化
- 従来の大犯三カ条に加えて…
- +(土地を巡る紛争の際に自身の所有権を主張して実力行使する51. 刈田狼藉の取り締まり)
- +(幕府判決を強制執行する52. 使節遵行
- +(軍事費調達のため一国の年貢の半分を徴発する権限を認める53. 半済令)
- *1352(54. 近江・美濃・尾張)に(55. 1年)限定で→やがて全国で(56. 土地の分割を永続的に認める)
- →大きな権限をえた守護は(57. 守護大名)とよばれ広域を支配下に置くものも登場
- 動乱期の幕府は守護の力に依存する(58. 連合政権)の性格が強い
- *一方地方在住武士(国人)同士が一揆を結び(国人一揆)、守護権力に抵抗することも畿内などでみられた(しかし守護は力を強め、守護請を行ったり、守護段銭を徴発する様に)
室町幕府
- 1368 3代将軍(59. 足利義満)が将軍に就任
- *この頃より全国的な動乱は鎮静化し、将軍の下に様々な権力が統一される
- 幼年で就任した義満を足利一門の細川氏らが補佐(=60. 管領)
- 管領は3氏から交代で任じられる(61. 三管領=62. 細川・斯波・畠山)
- (63. 1392)義満の斡旋により(64. 南北朝の合体)が実現
- :北(65. 後小松)天皇←南(66. 後亀山)天皇 *合体後も後南朝が続く
- 幕府は朝廷から様々な権力を吸収
- :京都の市政権〈警察権・民事裁判権・(67. 土倉役・酒屋役)の徴収権〉
- →(68. 侍所)が京都内外の警備や裁判を担当、所司は4氏から任命される
- *4氏=(69. 四職)=(70. 赤松・山名・一色・京極)
- 諸国に課す(71. 段銭・棟別銭)の徴収権
- 強大化した外様の守護大名の勢力を削減し、義満が室町殿(72. 花の御所)で全国的な統一政権として政治を行う(=室町幕府)
- 1390(73. 土岐康行の乱):美濃・尾張・伊勢の守護を兼任、追討され衰退
- 1391(74. 明徳の乱):西国11か国の守護を兼ねる(75. 山名氏清)らを追討
- *「六分の一衆」と呼ばれ権勢を誇るも一時衰退
- 1399(76. 応永の乱):(77. 大内義弘)が鎌倉公方と呼応して堺で挙兵し敗死
- *長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護を兼ね(78. 朝鮮)との貿易も行う
- 将軍職を辞任後は(79. 太政大臣)に就任し、出家後北山殿に移るも絶大な権力を握り続ける(~1408、没後朝廷より「太上天皇」の尊号を贈られるも80. 義持が辞退)
- 《中央組織》守護大名は領国を(81. 守護代)に任せ、自らは在京し幕府の役職を分担
- 管領:三管領から任じされ、将軍を補佐
- 侍所:四職から任じられ、京都の警備・刑事裁判などを担当
- 政所:将軍家の家政・財政
- 評定衆ー引付:所領の訴訟を審査
- (82. 奉公衆):諸代の家臣、守護の一族、有力地方武士からなる直轄軍(約300人)
- 《財政》
- (83. 御料所):諸国に散在する将軍の直轄領、奉公衆が管理
- 守護の分担金
- 段銭・棟別銭:国家的な行事に際して守護を通じて全国へ課税
- 土倉役・酒屋役:京都の(84. 土倉・酒屋=高利貸)への営業税
- 五山官銭:幕府の保護のもと特権を持つ五山(臨済宗)への課税
- (85. 関銭・津料):交通の要所で交通税を徴収
- 日明貿易による収益
- 徳政令による収益(分一銭)
- 《地方組織》
- (86. 鎌倉府):尊氏の子(87. 基氏)が初代(88. 鎌倉公方)に就任
- 補佐役の(89. 関東管領)は(90. 上杉氏)が世襲
- *10か国を統括し、管内の守護は鎌倉府に出仕。大きな権限を持ち、京都の将軍と対立も
- (91. 九州探題):九州を統括、義満によって派遣された(92. 今川了俊/貞世)が南朝勢力を制圧 *後に了俊義満により解任され『93. 難太平記』を著す
- 奥州探題:奥州の軍事・民政
- 羽州探題:出羽の軍事・民政
- 守護ー地頭
東アジアとの交易
- 《倭寇の活発化》
- 南北朝の動乱期に、海域世界では(94. 前期倭寇)が(95. 高麗)や中国沿岸(元1368~)を襲い甚大な影響を与える
- *前期倭寇は(96. 対馬・壱岐・肥前松浦地方)の住民が中心(後期倭寇は中国人中心)
- 襲撃地で捕虜の連行・米穀の収奪などを行い、高麗などの国勢を衰えさせる。
- 高麗は日本へ使者を派遣し倭寇禁圧を求めるも、動乱期のため成功せず
- 《幕府による私貿易》
- 1325 鎌倉幕府が建長寺再建のために貿易船を派遣(97. 建長寺船)
- 1342 足利尊氏・直義兄弟が(98. 夢窓疎石)の勧めで後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺を建立、その造営費用調達のため(99. 天龍寺船)が派遣される
- *博多商人の請負による私貿易の形態をとり、1976 に韓国新安沖で発見された新安沈船も同様に有力者が仕立てた貿易船であると考えられる
- 《明との交易》
- 1368(100. 朱元璋:太祖洪武帝)が漢民族の国である明を建国
- 伝統的華夷秩序の回復をめざし、諸国と関係を築く(→日明貿易 1401~)
- 南朝の支配する九州へ倭寇禁圧を求めるも、義満の治世まで実現せず
- 1401 義満の使者が明に派遣される:(101. 祖阿:側近)、(102. 肥富:博多商人)
- 明から「103. 日本国王源道義」宛の国書と(104. 暦)が与えられ国交開かれる
- 日明貿易は(105. 朝貢形式)で行われ、明から交付された(106. 勘合)を持参
- 1411 朝貢形式への反発から 4代将軍(107. 足利義持)が国交を中断
- 1432 6代将軍(108. 足利義教)が再開
- 以後は幕府から勘合を与えられた守護大名が貿易商と結び貿易を請け負う
- :(109. 細川氏)=(110. 堺商人)、(111. 大内氏)=(112. 博多商人)
- 1523 両者が利益をめぐり対立(113. 寧波の乱)
- 細川氏の不正が発覚し、以後(114. 大内氏が貿易を独占)
- *1547 最後の遣明船が派遣される(直後に大内氏が滅亡)
- 以後(115. 後期倭寇)の活動が活発化
- 1588 豊臣秀吉が(116. 海賊取締令)を出し、海上の秩序が回復
- 【交易品】*朝貢形式のため滞在費・運搬費などすべて明側が負担、莫大な利益をもたらす
- (明→日)(117. 永楽通宝などの明銭/銅線)、生糸、織物、陶磁器、書画等(118. 唐物)
- (日→明)(119. 刀剣)・槍などの武具、工芸品、(120. 銅)・硫黄
- 《朝鮮との交易》
- (1. 1392)倭寇撃退に活躍した(2. 李成桂)が高麗を倒し建国(3. 李氏朝鮮)
- 倭寇禁圧を目的に国交が開かれ(4. 日朝貿易)が盛んになる
- 日朝貿易のために(5. 三浦=富山浦・乃而浦・塩浦)が開かれ、三浦と漢城に(6. 倭館)が置かれる
- 貿易には(7. 守護大名・国人・商人)が参加
- 朝鮮は対馬の(8. 宗氏)に貿易統制を行わせる
- 1419(9. 応永の外寇):宗氏の代替わりで一時的に活発化、朝鮮軍が対馬に襲来
- 1420(10. 宋希璟)が来日、両国間の関係が回復し、再び貿易が盛んに
- *『11. 老松堂日本行録』を著す(尼崎での12. 三毛作の記事が有名)
- 1510(13. 三浦の乱):三浦に居住する日本人が特権縮小に反発して暴動起こす
- →(14. 以後しだいに貿易は衰退)
- 【交易品】
- (朝→日)(15. 木綿)・大蔵経(一切経)
- (日→朝)銅・硫黄・工芸品・蘇木・香木
琉球と蝦夷ヶ島
- 《琉球》
- 1429 三山(16. 北山・中山・南山)の抗争を治めた(17. 尚巴志)が(18. 琉球王国)を建国:都(19. 首里)、港(20. 那覇)
- 明や日本と国交を結び、東アジア諸国間の(21. 中継貿易)で繁栄
- 「舟楫をもって万国の津梁(架け橋)となし」(「22. 万国津梁之鐘」の銘文)
- 《蝦夷ヶ島》
- (23. 十三湊)で交易を行う「和人」(安東氏が支配)が(24. 蝦夷ヶ島)の南部に進出
- 各地に港や館を築く(25. 志苔館などをあわせて26. 道南十二館と呼ぶ)
- 漁労・狩猟・交易を行う(27. アイヌ)の人々が和人の進出に圧迫され衝突が発生
- :1457(28. コシャマインの戦い)
- 和人の(29. 蠣崎氏)が蜂起を制圧し、以後蠣崎氏が道南の支配者に成長